須賀川市復興に想う(2012/7/29調査団レポート)


須賀川市復興に想う(復興の光)

2012/7/29 [須賀川市未来資源調査視察団]参加レポート

2012/10/1  Yuji Hasebe

 2012/7/29、初めて須賀川の地に入った。商工会議所までの緩やかな坂の上り下りが続く沿道は、先の震災で被害にあった建造物が一部あるものの、その多くが既に取り壊されている。空地が目につき、街全体は閑散としていたが、復興前の静けさのようにも思えた。商工会議所にて話を伺い、須賀川市のいろいろな名所を訪れる。以下にその印象と今後の方向性のアイデアを想い浮かべてみた。

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 須賀川は、他の東北地方の都市と同様、先の震災で大きなダメージを受けた。福島県内では、もっとも被害の大きい地域だったようだ。さらに、福島の原発事故による放射能汚染は、50km圏内だけでなく、福島、郡山、須賀川などの「中通り」地区をも襲った。このダメージから立ち直るためには、道路や住宅の建設など、単に除染を含む生活基盤を整備する「復旧」だけでなく、街の産業基盤を活性化させる手段を講じなければ「復興」には至らない。

 

 須賀川には、ユニークな工業製品もあるが、街の財政に貢献できるほどの規模ではない。おのずと自然と歴史に向けた観光に傾注せざるをえないところだ。しかし、これまでの観光資源では一元客を呼べたとしてもリピーターにはつながらない。このため更なる観光資源を発掘し、観光の目玉として整備・告知していくことが必要となる、ということは、誰もが唱えていることだろう。

 

 須賀川には、昭文社[マップル]のリーフレットのタイトル「百花繚乱すかがわ」と表現されているように、いろいろな名所や名産・イベントが数多くある。それは、逆に「あれもこれも」の様相を呈していることからわかるとおり、シンボルとなるランドマークが存在していないことも意味しているかのようだ。地域としても、ひたすら観光の核となる名所や名産を引き出そうとしているが、もはや目に見える観光資源は枯渇しているに等しいのではないように思える。観光とは、「光」を観ることだ。まぶしく輝く「新しい光」を求めるよりも、むしろ既存の「光」を見直すとともに、視点を代えた「関係性」について模索していくことが重要なのではないだろうか。

 

 須賀川市のホームページは充実しており、住民へのサービスが行き届いているようだ。この街の住みやすさがうかがえる。また、「須賀川四季めぐり」などのようなテーマを設け、魅力的な画像を掲載するだけでなく、「すかがわ坂物語」や「文化財ガイドブック」、「旅手帳」のような各種のリーフレットが作成されている。ひとつひとつの観光要素を紹介している。これらの資料から、須賀川市がどのような街であるかを、おおむね把握することができることは、旅行者にとっては、ありがたい。一方で、限定された予算の中でプロモーションを実施しているので、総花的ともいえる特徴のない金太郎飴的手段を講じているようにもみえる。

 

 街歩きをしていて困ったことは、「自分が須賀川の何処にいるかがわからない」ことだった。常々、初めての街には、地元の地図を入手し全体を把握する。須賀川にも地図はあるのだが、正確な地図とデフォルメされた地図、北向きの一般的な地図と伝統的な西向き(北は右に位置する)の地図が混在しているだけでなく、ちょうどいい大きさの地図が見当たらないのだ。特に一元の観光客にはわかりやすい地図が必要だろう。それにしても、須賀川の道路網の複雑さからか、旅慣れた私自身でさえ、方向感覚に狂いを生じさせる。二本の川と新幹線、奥州街道に加え、馬の背の地形がそうさせているのだろうか。道路の複雑さを地の利として、「迷路ゲーム」や「ウォークラリー」などの遊びの創作もありうるので、決してこの地勢は不利な状況を創りだしているとはいえない。

 

 須賀川の地勢をみると、北に福島、西に会津、南は那須という、それぞれに強みを有する地域がある。特に西に隣接する会津には、四季に対応したリゾート地の磐梯山、猪苗代湖がある。さらに、信長・秀吉・家康らと時代を共有する上杉景勝、直江兼続の統治の歴史だけでなく、伊達政宗などの居城である鶴ガ城には白虎隊の魂も眠る。加えて、会津を舞台とした幕末のジャンヌダルクといわれる新島八重のNHK大河ドラマ「八重の桜」は、来年の話題をさらうだろう。現代の東北トップクラスのリゾート先進地域と会津をとりまく500年の歴史は、須賀川の最大の脅威ともいえる。須賀川は、会津、那須、福島に挟まれた観光の境界にあるため、これら観光地への通り道(引き立て役)になってしまっているのかもしれない。引き立て役の「目立たない街」の活性化を考える際には、まず、このことを自覚する必要性がある。その状況を理解して初めて、戦略的な思考での活動計画を策定することができるのである。

 

 400年前に、甥の伊達政宗と戦った大乗院の遺したものは、たとえ形勢が不利であっても最期まで「頑張る気概」と「いさぎよさ」ではないか。反面、総てを自前でこなそうとする閉鎖性が悪い影響を及ぼしている。優位な「ランドマーク」を持たない小さな地域がすべきことは、百花繚乱的な振る舞いではなく、模倣できない強みの形成と外部とのオープンな戦略的連携である。観光客中心にてテーマに沿った、地域連携による集中戦略がその要となる。あれもこれもの須賀川であってはいけない。大乗院譲りの気概と潔さに戦略性をもたせた構想で、花開く可能性は大いにあるものと考える。


 

 須賀川に残る観光資源とは何か [須賀川の魅力の再生]  

須賀川の観光資源として、以下の内容が印象に残った。

 

1.円谷幸吉:戦後初のオリンピックメダリスト。27歳で自らの命を絶ったことから、その功績を外部に誇示できないでいるように思える。彼の記念館は、過去には円谷幸吉の実家となりに質素に建てられ、家族に見守られてきた。数年前、記念館は須賀川の須賀川アリーナに移設された。この記念館にて、本物の遺書をはじめ数々の遺品を眺めることができた。どうやら「単にプレッシャーに耐えきれず自らの命を絶った」という理由だけではなさそうだ。

 さらにいろいろ調べていくうちに、彼が命を絶った理由がおぼろげに見えてきた。いずれにせよ、現状の須賀川の厳しい環境から脱却するために、再度、円谷幸吉に登場願いたい。単に彼の功績を評価するだけでなく、次の世代のマラソンランナーを創出する意気込みを表現したいところだ。スポーツへの真剣な取り組みは、周囲に対する感謝のこころを育む。「円谷の生涯」を通して、現代の「イジメや暴力」、「自殺」問題の解決に、一石を投じられるかもしれない。

 

2.円谷英二とウルトラマン:

 

3.坂の街:中心街が、馬の背にあるという特質は捨てがたい。リーフレットにより、坂の位置に加え、街全体の高低差のわかる地図や、坂の関係性がわかれば、これらの坂をどのように「遊べば」よいかがイメージできるように思う。ふと、市立博物館にある地形の立体模型を思い出した。須賀川城を攻めた伊達政宗と、坂の関係性が気にかかるところだ。また、坂の特質を活かすため、名所や旧跡を巡るマラソンのコースの設定もさることながら、「レンタルサイクル」を充実させ「坂あそび」をすることも大切だ。現状においては、須賀川駅の駐輪場とまちなかプラザの二カ所の拠点に、各5台設置されているようだ。

 坂に適応させるため、スポンサーとの連携による「電動アシスト型レンタル自転車」の設置と、商店街における「店先の駐輪場」を整備する必要性がある。商店街を活性化させるため広い道路と歩道の間を全て駐輪場にする、というプランは、まだどこの自治体も実施していないことから、全国から注目を浴びるかもしれない。景観を壊すというリスクは十分認識すべきではあるが。いずれにしても街の人たちが、率先して活用することが肝心。街の人が坂を楽しんでこそ、観光客にいい影響を及ぼすものである。

 

4.後藤新平と亜欧堂田善:田善は1748年に須賀川に生まれ、1822年に75歳で没した。市立博物館にて、遠近法、陰影法を取り入れた洋風銅版画を見学したが、その緻密さには驚かされる。配布された文化財ガイドブックの中にある田善の解説の中の一節に目が止まった。要約すると、「宇田川玄真という有名なオランダ医学者が『医範提綱』という本を出版したが、解剖図がなかったことから、田善に依頼し銅版画52図を完成させた。」ということである。

 一方、後藤新平は、1875年(明治7年)に須賀川医学校に通っている。先のガイドブックには「『医範提綱』は医学を学ぶ人に広く読まれ、明治に至るまで何回も出版された。」と記載されていることから、後藤新平が、田善の「解剖図」を見て勉強したとしてもおかしくはない。後藤新平と田善は、時代は違えこそ、繋がっていたのだ。博物館には、この銅版画がなかったように思う。是非、拝見したいものだ。

 

5.神炊館神社のエドヒガン群生地:桜の原種は、研究者のレポートによれば9~10種類あるという。その原種のひとつであるエドヒガンの群生地を案内してもらった。なにごとにつけ、原種や源流はユニークなものであるが、エドヒガンは全国各地で咲いていることから、人を惹きつけるほどのものではない。

 須賀川のエドヒガンとしては、樹齢350年の古舘のシダレザクラが、県指定の天然記念物になっている。福島県内では、三春の滝ザクラがエドヒガンとしては有名のようだ。エドヒガンの群生地としては、新潟県の五泉市があげられているが、数が少ないことからユニークな存在だろう。単発の観光資源ではなく、他の資源の組み合わせ(古舘シダレザクラ)や歴史的背景(誰が植えたのか)などを調査し、強みとして生み出す必要があるのではないだろうか。


 

須賀川市活性化を考える [走る:躍動感あふれる丘のまち須賀川

 須賀川市は、震災の復興が徐々に進んでいることから、メインストリートの電線地中化など、道路の復旧で街並みがきれいに整い始めている。また、路上のゴミも少なく清潔感のある規律正しいこの街に多くの観光客を誘引するためには、まずは、当然のことながら「須賀川を知ってもらい、実際に来て見てもらい、街を楽しんでもらう。」ことが肝心だ。最近の話題は、須賀川の中学校で起こった「いじめ」問題や、震災や原発事故による「放射能汚染」や「藤沼湖決壊」など、決して明るいものではない。須賀川再生には、暗い話題を払しょくする「力強さ」をイメージさせたい。須賀川の丘を「走る」をコンセプトに構想を組み立ててみた。

 

・知ってもらう:須賀川の知名度は、近隣の郡山や会津、猪苗代の知名度に押され気味であることから、決して高いとはいえない。何をおこなうにしても、話題つくりが肝心である。須賀川には、既に60年近く過ぎ去ってしまったが、東京オリンピック銅メダリストの「円谷幸吉」がいた。円谷幸吉を取り巻く話題には、明暗がある。若くして亡くなってしまったことから、ご両親、親戚、知人の方々には、辛いものと思われるが、再び、世に現れて応援してもらってはどうだろう。あまり無責任なことは言えないが、円谷幸吉の生きざまは、オリンピックのメダル獲得という栄光と挫折は、その遺言とともに、再度、世の中に感動を甦えさせられるかもしれない。

 円谷幸吉の歴史から、「がんばる日本人」を生み出すVisionが引き出せるように思う。現在のところ、須賀川に関連した著書として「亜欧堂田善の研究」はあるが、円谷幸吉に関しては見当たらない。「がんばる日本人」を際立たせるためにも、著書やホームページの作成は必要なことと考える。

 

・来て見てもらう:須賀川は、馬の背の上にある街であることから、坂の多いところだ。「坂のまち」という言い回しは、個人的には、若干重苦しさがうかがえるように思える。むしろ、「丘のまちにある坂」というような響きで、表現をやわらげてはどうだろうか。それにしてもこの「坂」が、観光客の徒歩による地域回遊の障害になっているように感じられる。その意味で、新たな交通となる手段を検討する必要性があるだろう。コミュニティバスや、電動のゴルフカートなどはコスト負担が大きい。そこで、エコな交通として、全国で脚光を浴びている「自転車」、それも「電動アシスト自転車」の活用に着目してみたい。

  昨今、各都市や地域において、「レンタルサイクル」の実証実験が数多く実施されている。しかし、「レンタルサイクル」はコストがかかり過ぎるため、必ずしもどこでもが成功しているわけではない。須賀川市にもこの仕組みはあるが、二カ所の駐輪場と数台の自転車では、活性化されているとはいえないだろう。福島県における、省エネ、地球環境改善策として、丘のまち、坂のまちを、レンタル方式の電動アシスト型自転車で回遊する「実証実験」は、全国の自治体からの見学客の増加が期待できる。

 須賀川の場合、残りの電気が少なくなると、ウルトラマンのごとく警告ランプのつく仕組みや、安全面を考慮して、坂での過速度を避けるための速度リミッターを装着するなど、多少の改造が必要である。さしずめ、円谷英二の事務所と交渉し「ウルトラマンチャリ」と名付けたい。レンタルサイクルの中においては、「ウルチャリ7」や「ウルチャリ太郎」のように命名すると愛着がわく。電動アシスト自転車は、坂の多い街に最適であることから、スポンサーも探しやすいのではないだろうか。

 さらに、観光スポットを隅々まで回遊してもらうため、市民の協力を得た、定期的な「サイクルラリー」、通称「須賀川ウルチャリラリー」などのイベントを開催することが効果的である。「鳥居の下にウルトラマンは何人いたか?」、「生みの親、円谷英二の碑に書かれていた言葉は?」などのウルトラマンクイズを絡ませることにより、観光客と共に楽しんでもらうことができる。ご当地クイズと合わせ、全国的に広がれば、須賀川の知名度もあがるだろう。

 

・楽しんでもらう: 「ウルチャリ」で訪問してくれた観光客には、興味ある商店に立ち寄ってもらわねばならない。そのための「自転車とまる化」を考えてみよう。昨今、駅前周辺には放置自転車が数多くあり、歩行者や周辺住人が迷惑を被っている。放置自転車には、長時間駐輪の「通勤通学用自転車」、短時間駐輪の「買い物用自転車」に大別できる。通勤や通学客は、駅周辺の駐輪場に停める事ができるものの、買い物客は、「ちょっとだけ」停める(チョイ停めという)ことから、駐輪場に入れることはない。各自治体では条例を策定し、用途の分類に関係なく放置自転車を撤去する例が多い。

 ある自治体で、放置自転車撤去の強化をしたところ、街の放置自転車はなくなったが、同時に街なかの賑わいもなくなった、という笑えない話もある。買い物客が手軽に停めることのできる駐輪場として考えられるのが「路上駐輪」である。路上駐輪は、大阪や京都では、盛んに行われているが、いずれも駐車場メーカーが設置した有料駐輪場である。須賀川の2kmのメインストリートの沿道を無料駐輪場として開放することによって、観光客が気軽に買い物が楽しめるだろう。

 

◆  須賀川市活性化構想の概念図

 

 上記の三本の柱をまとめてみた。それぞれの連携戦略は異なる。また、除染などの影響により、実現時期も異なる。長期戦略と短期戦略にわけて、地道に実践していくことで道は開けるだろう。さらに、これまでの須賀川市の観光資源や観光用イベントを継続することに加え、現状における最大連携を目指して活動していくことが重要だ。須賀川市の議会、学校、官庁、警察、とりわけ商工会や住民が一体となって、賑わいのある須賀川を再構築することに期待したい。

◆ 地域戦略の調和(昨日のライバルは、今日の仲間)

 

 これまでは、須賀川を中心とした近隣自治体との差別化をベースにした考え方である。しかし、それぞれの柱がうまく機能したとしても、集客の継続性はおぼつかない。特に、海外観光客の誘致を考えた場合、須賀川という街だけで集客することはできない。須賀川には、周辺に「磐梯」「那須」といった、大きな観光地や保養地がある。ここに、近隣自治体との連携の必要性・重要性がでてくる。須賀川はあくまで宿場町に徹するのだ。それは「祝場町」であってもいいのかもしれない。


 

マラソンの聖地としての須賀川 [円谷死すとも・・・その魂は死なず

      ◆理念:マラソンを通してがんばる日本人を育成する

      ◆目的:円谷マラソンへの注目度向上により、須賀川地域全体を活性化させる

      ◆目標:須賀川をマラソンランナーの聖地巡礼の場とする

[指標:円谷幸吉メモリアルマラソンへの現役競技選手数の増加]

     *円谷マラソンへの参加者を増加させることを目標としないことがポイント

 

◆概要

 

 須賀川の英雄である円谷幸吉の生きざまを伝えることで、次世代の人々にコトやモノの限界を学ばせる。記念館には言葉では伝えられない、人生の光と影を映し出した暗黙的なメッセージがあり、これらを取り上げることは、彼の功績を風化させないことでもある。坂という試練の多いこの地でのマラソン競技は、これからの日本を支える「がんばる日本人」を生み出すことだろう。

 

◆背景

 

・円谷幸吉メモリアルマラソン大会:須賀川出身の円谷幸吉は1964東京オリンピックでアベベに続いて国立競技場に戻った。しかし、観衆の面前において英国ヒートリーに抜かれ、結果的に3位となった。ともに走ったメダルの最有力候補の君原健二は、結果的に8位でゴール。戦後初めてのマラソン「銅メダル」獲得は、多くの大衆の期待にこたえたものであり、その功績は大きい。しかし、その後、講演など多くのメディアに引き回されることで、練習量は落ち、さらに、発症した椎間板ヘルニア、左右のアキレス腱切断と苦難が続く。その後の手術にて三カ月の入院生活を送るが、復活は困難なものとなった。加えて、失恋の痛手は大きかったようである。

 メキシコ五輪を迎えたその年、「もうすっかり疲れきってしまって走れません。」の言葉を残して自らの命を絶った。遺書は、それまで支えてくれた両親や親戚への、食に対する感謝の言葉で始まる。それは命懸けで走り抜いた27年の人生を、彼なりの美意識で表現した辞世の句でもあると人はいう。川端康成、三島由紀夫、野坂昭如など、良否は別として、その評価は高い。

 一方、君原は、その後のボストンマラソンで優勝し、さらに円谷が亡くなった後のメキシコ五輪では銀メダルを獲得した。円谷の生まれ故郷である須賀川でメモリアル大会が開催されたのは、15年後の1983年のことだ。君原は、円谷の命日の墓参りを欠かさない。いまもってこの円谷マラソンにも参加している。2016年のボストンマラソンには、歴代の優勝者が集うという。君原は、円谷の魂を携えて走ることだろう。

 

・青梅マラソン大会: メキシコ五輪の前年の1967年2月の梅の花が咲く頃、第1回の青梅マラソンは実施された。その標語は「東京オリンピック銅メダリストの円谷幸吉と走ろう!」だ。しかし、途中、膝を痛め、図らずも優勝は若松軍蔵。満身創痍の身体とはいえ、スローガンとして掲げられた記念の大会で、円谷は負けてしまったのだ。

 私自身、マラソンは不得手だが、「円谷幸吉と走ろう」の言葉に惹かれ、1978年の第12回大会より参加している。しかし、その標語も、1982年の第17回の記録には、既に掲載されてはいない。まるで、歴史から消え去ってしまったかのように。翌年の第二回青梅マラソンおよびメキシコオリンピックの年の1月に、彼はこの世を去った。

 なぜ、彼は自らの命を絶ってしまったのだろうか。遺書の内容からみて、現代の「自殺」とは明らかに異なるものだ。それが長らくの疑問であった。たゆまぬ努力と忍耐力、自尊心の高さと謙虚な姿勢、加えて、大乗院の頑張る気概といさぎよさは、須賀川の民族性を表しているのかもしれない。円谷の絶命は、どうやら武士道の「切腹」に値するように思えてならないのである。

 

・猪苗代湖ハーフマラソン:昨今、地域の活性化を目指して各地でマラソン大会が数多く実施されている。円谷幸吉メモリアルレースは、今年10月21日に開催される。中でも同日、同時間に開催される猪苗代湖ハーフマラソンは、須賀川と50kmしか離れていない地域で実施される。円谷マラソンに対し意図的に設定されたものかどうかは不明だが、福島の陸上関連の団体を巻き込んでいるだけに組織的に対抗させたものとして間違いないだろう。競合させるか、協調するかは須賀川次第である。

 

◆マラソンにおける須賀川市の強み

 

①物語性のある大会:円谷幸吉の生誕地であり、遺書や遺品のある記念館がある。そのメモリアルレースは30年の節目を迎えた。今回は、往年のランナーである君原健二に加え、長距離トラック選手として、アトランタ、シドニー、アテネのオリンピックに出場した弘山晴美が参加する。

 

②容易な地域連携:46年の歴史がある青梅マラソンのスローガンは「円谷幸吉と走ろう」。須賀川からの参加選手が優勝を目指す理由となるばかりでなく、ボストンマラソンと提携関係にあることから、須賀川→青梅→ボストンという連携も話題性がある。次回オリンピックへの足掛かりとするのもいい。

 

③陸連公認の厳しい坂:須賀川には、円谷を育てた特異な地形ともいえる馬の背を中心とした坂がある。日本陸連の公認を受けたコースの途中には、円谷の生家があることも強みのひとつだ。

 

◆関連マラソンレース比較

 

 以下は、東京マラソンを含む、関連マラソン大会を比較したものである。この表にて、これからの円谷幸吉メモリアルマラソンの方向性と戦略のアイデアが見つかるかもしれない。

 競合大会は、円谷マラソンの同日、同時間に開催される猪苗代湖ハーフマラソンだ。状況を読む限り、このレースは、企業活性化のための「商業マラソン」。東京マラソンとの連携も深そうである。この大会は、さらに猪苗代湖を中心とした「トライアスロン」に発展するかもしれない。猪苗代湖スイム2km、会津-須賀川バイク50km、須賀川ラン10kmの「会須トライアスロン」は面白そうだが、実現性は薄い。今年の猪苗代湖ハーフマラソンに対して、須賀川市とスポーツ振興協会の対応姿勢が、今後の円谷マラソンの動向に大きく影響するだろう。いずれにせよ、今年の「円谷マラソン」、および来年の「青梅マラソン」に出場し、これからの可能性を探っていくことにする。

 

◆おわりに

 

 街の活性化を継続させるためには、旅行客を誘引し観光させるといったような短期的視野のみならず、グローバルな視点からも街を捉えなければならない。また街の活性化に伴い、これまでになかった様々な問題点が顕在化してくる。常に新しい技術や改善案、ビジネス手法、市場の動向を見極め、即座にこれら問題に対応することが肝心だろう。

 それは、例えば、福島全域の震災復興を「協働」しながら旅をしてもらう、旅行者参加型のボランツーリズム活動の実践や、エネルギーの課題解決のための「分散型太陽光発電場」など、最先端の考え方を吸収し、新しい観光資源とすることもいいかもしれない。構想とは、地域の資源の奥底に潜む先人の哲学を探り出し、市民全体の知恵を結集させた「将来の姿」を構築することと考える。これからの須賀川の行動力に期待したい。

 

2012/10/1

長谷部裕治(構想博物館パートナー)

www.sophiadesignworks.com 


 

◆参考文献

「風景:一草一花(川端康成)」93(通巻90)1968.3

「美しい日本の私」川端康成著(講談社)1969.3

「亜欧堂田善の研究」磯崎康彦著(雄松堂書店)1980.11

「自殺者の近代文学」山崎國紀著(世界思想社)1986.12

「日本語で生きる:恋文から論文まで」丸山才一編(福武書店)1987.9

「忘れられた名文たち」鴨下信一著(文藝春秋)1998.6

「円谷幸吉は無駄死か」週刊金曜日1630714(通巻728)2008.8,15

「円谷幸吉が君原健二と買った婚約指輪」週刊文春5113(通巻2521)2009.4.2

20世紀スポーツ列伝:円谷幸吉とその時代」読売新聞運動部著(中央公論新社)2000.9

「東京オリンピック1964」フォート・キシモト著(新潮社)2009.8

◆参考カタログ

「第30回円谷幸吉メモリアルマラソン大会案内書」円谷幸吉メモリアルマラソン大会事務局2012

「須賀川市文化財ガイドブック」須賀川市教育委員会

「須賀川坂物語:まちなかマップ」須賀川商工会議所

「須賀川旅手帳」須賀川市産業部観光交流課/須賀川協会 2011

「まっぷる:須賀川」須賀川市・須賀川観光協会企画(昭文社)2012.2