つぶらや      こうきち

円谷幸吉は、1940年、須賀川市に生まれた。1964年10月21日の東京オリンピックマラソンにて、戦後初のマラソン銅メダルを獲得。しかし、その3年後、自ら命を絶ってしまった。円谷幸吉は、何故、亡くなったのか。亡くなる必要があったのだろうか。その本当の理由を知ることはできない。円谷の生きざま、死にざまから、円谷幸吉が夢見たであろう、躍動感あふれる丘のまち須賀川を想い描いてみたい.

 

*表題の写真は、ホテルウィングインターナショナル須賀川より眺めた「翠ヶ丘(みどりがおか)公園」周辺。画面左手前の森に、円谷幸吉のお墓のある十念寺がある。

*正式には「つむらや こうきち」ですが、普段より親しみのある「つぶらや こうきち」にて表記させていただきます。

本研究においては、現場での取材内容、撮影画像を随時掲載するとともに、本件に関わる様々なメディアの情報を掲載。独自に発想した「学びの方法」ともいえる、「公開研究(Open Study)」形式で進めています。ご意見、クレームなどあれば、参考にさせていただきたく考えております。(Y. Hasebe)



▼円谷幸吉の走る姿。筋骨隆々ながら、しなるように身体全体を使い、キリっと胸を張って走る円谷幸吉のこの写真が、なによりも好きだ。(1964東京オリンピックマラソンにて)

Photo: 「東京オリンピック1964」フォート・キシモト&新潮社(2009)新潮社
Photo: 「東京オリンピック1964」フォート・キシモト&新潮社(2009)新潮社

何これ?と、ふと立ち止まって、それを観察し続ける。さらに観察し続ける。それを感じるまで見つめ続ける。「美を感じること、愛すること、それは、小林秀雄にとって、苦労すること、喜んで忍耐することと同義だった(2014/3/16読売新聞)」。2013年、須賀川の街を走る円谷幸吉メモリアルマラソンに出場した。円谷を、そして須賀川の美を感じるため、[喜んで忍耐してきた]二度目の挑戦となった。(Y. Hasebe)

▼1964年の東京オリンピックでのマラソンに聴衆は酔いしれた。その生中継において、今もって記憶に残る場面は、国立競技場でのゴールシーン。200m手前で追い込んだ英国ヒートリーのスピードは凄まじい。面前で恥をかかされるのは、とてもつらいこと。この悪夢が、円谷の人生を変えてしまったのか。


▼須賀川市市役所は東北大震災により、建物が使用不能となり、現在、再建中である。その市役所横の松尾芭蕉記念館にて、色あせた地元の新聞があり、自由に閲覧できるようになっていた。(2013年当時)

円谷幸吉(東京オリンピック1964)
円谷英二(ウルトラマン特撮)

円谷幸吉onよみほっと日曜版"名言巡礼"


10月20日に開催された「第31回円谷幸吉メモリアルマラソン」にエントリーしましたが、レースの前日、円谷英二の記念碑の前で、読売新聞の記者とカメラマンに偶然遭遇。ここでの取材内容が、2013年11月10日発売の読売新聞「よみほっと日曜版」に、円谷幸吉と須賀川の特集記事が掲載されました。

▲リンク先:ヨミウリオンライン「名言巡礼」 
▲リンク先:ヨミウリオンライン「名言巡礼」 


*画像などは、極力、自身で撮影したものを使用しております(文章はオリジナル)が、一部、他者の方の画像も、出所を表記の上、使わせていただいております。肖像も含め、後日、改めて承認をお願いすることになりますが、削除のご指摘があれば、速やかに対処したく思います。その際には、こちらまでご連絡ください。ありがとうございました。