長岡民男「もう走れません」概略と所感


再度、沢木耕太郎の「もう走れません」を読んでみました。概略を把握するにわかりやすい本です。以下、ポイントとなる部分を時系列的に引き出しました。()内の数字は参照ページ。また@以降の青字は、わたしの所感です。

 

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1940年、円谷家の六男として生まれる。父、幸七は、大正9年会津若松65連隊で、星三つの上等兵で除隊(p34)。円谷家の子育ての三本柱 ①自分のことは自分でせよ ②他人に迷惑はかけるな ③やり始めたことは、最後までやりとげよ。小学校の友には羽鳥健一、菅野浩吉がおり、須賀川第一小学校3-6年までの担任は小松淑子だった(p35)。

 

1953年、須賀川第一中学校に入学。ヘルシンキオリンピックで山田敬蔵、西田勝雄、内川義高惨敗。小四から珠算、中一で四級。校内マラソン大会で二着、翌年三着。蝿取り大会優勝(p45)。牡丹園は、薬種商の伊藤祐輔が薬用に牡丹を栽培したことに始まる。五月中旬の牡丹まつりで第一回牡丹マラソンに喜久造と幸造が出場し上位入賞(p55)。

1956年、高校一年終わりマラソンを始める。やがてマラソンに反対していた幸七の許しを得る(p56)。

 

1957年、高校二年の時、郡山の開成山競技場における須賀川12kmロードレースで惨敗するも、県南陸上競技協会の会長である安藤武の目に止まる。須賀川高校の陸上競技部長の細谷光教論から誘われる。幸七も入部を賛同(p63)。その後短距離走で、スピード練習に明け暮れる。牡丹マラソンで高校の部で二着に。細谷は、素質と負けん気と家庭環境から、大選手の素質を見いだしていた(p70)。福島県縦断駅伝で、松崎昭雄の替え玉となり出場。区間賞を取る(p75)。

 

1958年、高校三年の五月に、信夫が丘競技場でのインターハイ5000m予選で三着。六月、山形県営競技場での東北大会で、岩手県福岡高校の南館則行に、一周遅れも六着に入る(p79)。下関の市営陸上競技場で開催された第11回インターハイに出場。ベストタイムなるも予選17位(p84)。

 

富山で開催される秋の国体に出場。福島農蚕高校の教員:斎藤久に車中で話しかけられる。予選二組には、福岡県戸畑中央高校の君原健二もいた。結局、予選通過ならず(p92)。十月に青森-東京間都県対抗駅伝に参加。三区間でいい成績を納める。青東駅伝こそ円谷を育てた苗床(p97)。畠野洋夫いわく、円谷は、自分の判断でスパッと行動することで、物事のケジメをつける男。1959年自衛隊に入隊。幸七へは事後承諾を得る(p106)。

 

1959年、郡山の第六特科連隊に配属。野球の斎藤章司三曹に会う(p108)。川口正二一等陸尉率いる中隊に配属(p111)。

 

1960年、熊本国体で、五位入賞。12月に自衛隊全国管区対抗駅伝で惨敗。円谷は、坊主となって川口中隊長に陳謝(p116)。大阪-東京間第三回毎日駅伝で、自衛隊選抜チームが万年最下位から六位に入賞する。高地トレーニングの成果。円谷は三区間を受け持つが、競合揃いの大変な区間。東京オリンピックに選抜された君原、寺沢、円谷が競った最初のレース(p121)。

 

1961年、国立競技場で開催された日本選手権で、六位入賞(p127)。国体予選、福島県民大会で好タイム。秋田で開催された第16回国体では、山田敬蔵が指導する秋田の伊藤勝悦が優勝、円谷は二着。村社講平とも交流する(p130)。熊本での自衛隊全国管区対抗駅伝にて、カニで食中毒になるも、負けん気と頑固さで出場(p134)。青森-東京駅伝に出場。三区間で、ともに区間新記録。

 

1962年の正月開催された大阪-東京間毎日駅伝で、円谷は大ブレーキ。朝風呂の影響。その後、腰痛が再発。養生するも回復せず(p136)。不調のため、選考訓練に参加できず。畠野洋夫二等陸尉(28歳)の推薦で、体育学校特別体育課程一期生に選出体育学校長は吉井武繁陸将。円谷は、忍耐力責任感追求心闘争心礼儀正しく人和を重んじ明るい性格。常に全力を出しきる(p142)。

 

円谷は、どんなに困難な命令にも黙って従う男。弱音を吐かない(p149)。東北選手権六月で福島県のホープとして復活優勝(p146)。アジア大会代表選考会で、船井照夫にゴール手前300mで抜かれ二着(p150)。ニュージーランドのリディアードの指導を受け第四回アジア大会を始めとする秋の国際レースで低迷していた日本のマラソン会に明るい日差し(p155)。全国勤労者大会11月で二位(p156)。10月、国体大宮競技場で5,000mと一万mで優勝(p157)。陸連の織田は、中大監督である西内文夫に、目をかけるよう依頼する。中大の岩下察男と猿渡武嗣と友情を結ぶ(p162)。

 

1963年4月 中大夜間の法学部に入学(p165)。1963年7月から9月 ニュージーランド合宿(p169)。練習日誌を毎日のように、西内と畠野に郵送する(p172)。世界記録と日本記録の好成績を残したニュージーランドから帰国した際、インタビューで次の試合のタイムを宣言。防衛功労賞や陸連勲功賞を贈られる(p176)。東京プレオリンピックで5,000m二位、1万mで四位(p180)。1963年11月伊豆大島合宿。

 

1964年2月 西内と織田は、円谷のマラソン出場を画策(p184)。

 

1964年3月丸亀善通寺合宿。畠野は、宮路道夫と南三男を円谷の練習パートナーとして声をかける(p186)。西内からマラソンをほのめかされ、中日マラソンに無調整で出場、五着となる。

 

1964年4月 第19回毎日マラソンに出場。君原一位、円谷二位、寺沢三位。オリンピック代表に決定した(p187)。鹿児島にて、畠野、宮路、南が、福島の円谷を応援する。

 

1964年5月 松本合宿では、寺沢には村社講平、君原には高橋進、円谷には畠野洋夫がついた(p203)。円谷は就寝前には服から下着に至るまで綺麗に枕元重ねる。忙しい早朝でも夜具をキチンとたたむ。入浴する時も同じだ。寺沢はその几帳面さに驚く(p209)。スタートラインに立つときも同様だ。トレパンやトレシャツを脱ぐとシワを伸ばしながら丁寧にたたむ。気持ちが昂っているときでも、もの静かな顔つきで衣類をたたむ。沢木もそれに習い衣類をたたむようになった、という。

 

@円谷幸吉が、特に几帳面だとは思わない。衣類をたたむという行動は、次への行動へ切り替えるためのルーチンワークの一つだ。レース前の緊張感や高揚感を自然と抑える効果がある。例えばイチロー。例えば岩原勇。昔から習慣づいている、衣類をたたむという行為は、他人からみれば、奇異[几帳面]に映るかも知れないが、円谷にしてみれば、このことで普段の自分を取り戻していたのではないだろうか。

 

1964年6月 新潟国体では、5,000mで日本新記録。35kmロードレースで三着なるも、日本新記録(p211)。

 

1964年7月 夏合宿で霧ヶ峰、伊豆大島

 

1964年8月 札幌(p212)。北海タイムスマラソンで、君原、円谷、寺沢が出場。円山競技場での10,000mで世界最高記録。

 

1964年10月 宮路は練馬の第一師団へ、南も海上自衛隊の鹿屋基地へ(p252)。

 

――― 【東京オリンピックに出場】 ―――

 

オリンピック後[栄誉第一級防衛功労賞]。国際親善試合に出場。

 

1964年11月 故郷須賀川で祝賀パレード。その後各種団体や企業から講演の依頼(p254)。

 

1965年 富士学校の上級幹部コースに転じる(p254)。畠野は、その後の言動から、円谷はマラソンを走る忍耐力はあっても精神的に孤独に耐える強靭さを持ってはいないと感じた(p257)。関東選手権のあとの北海タイムスマラソンでは暑さと疲労で、初めて棄権(p259)。岐阜国体の10,000mで沢木に負ける。沢木に引導を渡された(p260)。

 

1966年2月 久留米の幹部候補生学校に入校。

 

1966年7月 畠野は1972札幌冬季オリンピックのバイアスロン指導のため、朝霞の体育学校から札幌の北方基地訓練隊へ異動。

 

1966年9月 円谷は久留米から朝霞の体育学校に戻った。その後、畠野とはすれ違いで再び会うことはなかった(p262)。

 

1967年2月 右足首激痛。

 

1967年3月 痛みを感じながらも出場。17kmで両足ケイレンするも何とか完走。二週間後、水戸マラソンにも出場したが、9着に終わった(p265)。

 

1967年6月 全日本実業団選手権大会に出場するが、調子は戻らなかった。その後の合宿で、左足のアキレス腱を切断してしまう。この故障により、本心ではまだ諦めてはいないものの、メキシコオリンピックを諦める口調に変わってきた(p267)。

 

1967年7月 体育学校の練習中、今度は右アキレス腱を切断してしまった。第三品川病院にて、持病である椎間板ヘルニアとアキレス腱の手術を受けることになった(p268)。二ヶ月の闘病生活。メキシコオリンピックの最終選考レースは春の毎日マラソン(p270)。日本には過度の国民的期待感が横溢しているようだ(p274)。

 

@円谷家の家訓ともいえる[初志貫徹]とともに、有言実行を守ってきた円谷にとって、メキシコへの不参加は、日の丸掲揚を期待した人々を裏切ることになってしまう、と考えたのだろう。

 

@結果的に、子孫代々より受け継いでした円谷家の名声は崩れ、[卑怯者]のレッテルをはられ村八分の目にあうかもしれない。いうなれば、自分一人だけの問題ではなく一族に迷惑をかけることになってしまう。時代が時代であれば円谷家はお家断絶となり、一族が切腹する状況になるかもしれない。落ち込みは、起こりうることもないことを妄想してしまうものだ。妄想は続く。これは日本全体に言えることではないか。本来、国を守るはずの自衛隊が、裏切者の汚名を被ることになる。それは[迷惑]を越え、大きな被害を及ぼす。いろいろお世話になった人たちが左遷どころか、自衛隊をクビにされてしまうかもしれない。

 

最終選考会に出場し、死にもの狂いで走った結果、選考にもれたのであれば、まだ納得がいったことだろう。自制もできず無理をした結果だけに、言い訳ができない状況まで自分を追い込んでしまったのか。オリンピック出場をあきらめることは、理由はどうあれ許されることではなかった。その選考会に出場できなければ、その時は、、、。と考えたのかもしれない。

 

1967年11月 退院。別府の陸上自衛隊駐屯他で、温泉治療を兼ね、トレーニングを重ねた(p275)。

 

@入院時は、えてして誰もが弱気になる。わたしも、高校時代、右足の甲を複雑骨折し、ギブスを巻かれた時には、これでもう再起不能だ、と考えたことを思い出す。しかし健康を取り戻すと、そのような憂鬱な思いは消えてしまった。しかし、いくら一級のランナーであっても、一か月程度でベストな状態にもっていくのは、難しいだろう。

 

気合いを入れて走るものの、10,000m、35分の芳しくないタイムはショックだったようだ(p278)。そんな頃、オーストラリアのデレククレイトンが、2時間10分を切る記録をだした。20km通過が、59分台。佐々木精一郎も、2時間11分17秒の記録をだす。世界のマラソンは、円谷の絶頂期の東京オリンピック当時と比べ、恐るべき進化をとげた(p279)。

 

1967年12月 第三品川病院で経過診察を受けるも異常なし(p279)。

 

@これまでは、怪我で走れない、という正当な理由があったが、健康体となった今はその理由は使えない。これまで走るという技術を、忍耐と努力で乗り越え、それなりの結果をだしてきた。それも、優秀なコーチと自分を引っ張ってきた仲間がいたからこそできた。回りの仲間もいない現在、絶頂期の記録を5分も縮めることは、たとえ時間的ゆとりがあったとしても、無理であると自覚したのだろう。

 

1968年の正月のご馳走はいうなれば、最後の晩餐でもあった。円谷は、その一つ一つをメモしていったのではないか。辞世の句ともいえる遺書は、一晩で書けるものではない。食事をしながら、こころの中は感謝の気持ちで満ち溢れていたことだろう。